昭和43年11月20日 朝の御理解
第九十五節 世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。
中々間違いやすい、頂き違いをするこれは御理解だと思うですね。(じゅんこよ?)取次者に対する御教えじゃろうとこう思うのですけれどもね。これは取次者(ごと?)じゃない。この中から本当のことを、本当のこと、信心を分からなきゃならんと思うですね。例えばその前の九十四節にも、(つうに?)似たようなことがありますね。信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。とゆうように、お供えでもどんどん出来る人を大事にする。反対にお供えなんか、できないものをそまつにする。というようなことでは、取次者としての、あー資格はないとゆうふうにこう教えてもらえる、ね。確かにこれは教師に対するこれも心がけでなければ( ? )けれども、みんなですね、物を余計に持ってくる、大事にしてはならないけれども、これでその、後はここに(げにかいではおがまん?)と、ね、たくさんお金を持ってくるから拝んであげるとか、お金を持って来ないから拝んでやらんとかはない。やはりそうゆう例というのは色々あるんですね。例えば( ? )であの結婚式なんかが依頼いたしますと、ちゃんと(程度?)が決まってるわけなんですね。向うどうしますか、一万円、五千円、三千円というゆうに、そうゆやってお供えが違う。というわけでしょうの( ? )ことか知らんけれど、違うおかしいですね。これなんかは、私は( ? )神を商法にしてはならん、というのはそうゆう商法にしておるというちょっと立礼ですね。私はあの一月ぐらい前でしたか、たまたまテレビを見せて頂いておりましたら、その途中からでしたからよくどこの何様か知らんのですけれども、やはり何かこう、教祖的なひとですね、女の方なんですけれども。その方が、何か生神様(しにす?)ていうのがあってるんでしょ。そこんとこを見せて頂いたんですけれども、まぁ年のころなら5、60ぐらいおばさんなんですね。それでその、もうはっきりした割り切った考え方と申しましょうか、もう実にそのままズバリにこう、いうならお取次というか、その信者の訴えを聞いておられるんですね。ところが神様、( ? )なっちゃないんです。ところが、御三宝がおいてある。一万円だけ。(ゆたか?)こう積んであるんです。ほー次々に参って来る信者に、はい三万円、二万円って言ってから取りなさる。やっぱそれをもう本当に、有難そうに、はい三万円です( ?)こうやって渡しよる(もうですね?)ちょうど( ?)あるところに手紙が参りました。東京から手紙がきた。ね、ところがそれをもその週刊誌かなんかでそれをおばあさんのことを見てからですね、その手紙をずっと書いてあるんですよ。あなたのことを聞いてそれこそ地獄で仏におおたような思いでございましたと。(あいあいにこう ?)思いでございましたと。私と息子がこうこうでございますから、どうぞお助け下さいというその手紙がきました。それでこうやって開封したところ中から五百円でてきたんです。そしたらこんなことこんなことつまらんとポンと捨てられた。相手は本当にあなたのこと聞いてから地獄で仏におうたような気持ちだというてそのいうなら取次をすが、願っちゃるわけなんです。ね、お願い致しますというて。ところがその中に入ってる五百円。こんなこっちゃつまらんというてポンとその手紙を捨てられるんです。このくらいなことで病気が治る、そして説明しておられます。例えていうならば、五億円(うってから?)田んぼを買うても、十万もするのもありゃ、五万円のもあろうが。ね、一万円のもありゃ三千円のもある。三千円でおかげ頂くのもあるけれども、(ごまんなんじゅうな?)病気を五百円ぐらいで治るはずがないじゃないか、というようなことを言うておられるんです。けれども私それを聞かせて頂きながら、非常にその(ぎもん?)がったことだと思ったですね。この人は例えば、はいあなた三万円、あなたは一万円というておられるけれども、これは( ?)おらんのじゃないですよ。ね、そら例えば今の私に三万円というのはとてもその出来ないのけれども、こう助けて頂くということにならばです、( ?)それこそ自分の持ち物売ってからでも、三万円を作っていうなら、(祈らせて?)頂きたいというところにおかげの頂き(?)があるです。ですからここんところ(原価 ?)金光様の信心は、もう(ぜんきん?)金がないというような、浅い考え方ではいけない。これは取次者に対する例えば今言う、あなたー、はいくら(かくら?)というて、それをその自分が食べて行くための手段とでも申しましょうか。けれどもそして最近、お道の教師の中にもです、(ぜんかん?)にも拝まんといいながら、(ぜんかん?)かんで拝んでおるような、先生方がたくさん実はありゃせんだろうかと思うですね。いうならばです人が助かるこのために、神様の前にこうして奉仕しておるのじゃなくです、自分たちの生活のために、例えば奉仕しておるとするならばそれは(げんかん ?)同じことです。ね、例えば私がですよ、ここで一日奉仕させて頂くということでも、ね、これが生活のためにここへ座っておるというならですね、これは、(げんかんに拝んでおること?)同じことです。ね、ただ神様の周りにですね、神様にいつどうゆう御用がおありなるやら分からない。ね、神様の御用のために、いうならば難儀な氏子のお取次助けられることのために、これは奉仕であったときに、初めて私はこの御教えが、を行じておるということになると思うんです。ね、生活のために金光様の先生なって、生活の経てるために、毎日の奉仕をあるとするならばです、例えば金光様の信心が、(ぜんかい?)拝まんと言いながら、もうすでに銭金に拝んでおるふうになるじゃと私は断定いたしますですね。例えばそのことがいい事、悪いことが別といたしましてですね、もう( ?)様か私知りませんけれども、その人の、あなたは三万円、あなたは一万円、はぁ五百円が(よかっちゃ?)拝んでやれないと拝んでやられない、五百円では拝んでをやったけども助けからんじゃいけんから、こんなことでは助からんと言ってポンとこう捨てられたというのは、いかにも銭金で拝んでおるようだけれども、銭金で拝んどるさるとではない。問題は本当それを助からんならんから、そう言いござるとやしござるのじゃというふうに感じます。それは、それだけのがたあるなと思ったんですけども、そうゆう例えば、んならあのー、(きうち?)こうやってお取次なさるですね。おおきく、重体の患者の場合なんかは、着ておる着物からですね、食べる食器類から、全部食器類やら洗ってしまわれる。着物は全部裸になってから焼いてしまわれる。そうゆうところもテレビで映っておりました。ね、病気はこれに乗り移っとると言うわけですね、この着物に。だから自分が着とるどうゆう着物でも、テレビで出たのは立派な着物でしたが、それを全部裸になってから、お祭りどんどん燃やされるんです。これじゃ着物がいくらあったっちゃ足りん。なるほど、これならお金がかかるだろう、とアナウンサーが言っておりました。もちろん(さわれば?)何でも食器類を全部たた、こまめに叩き割ってしまわれます。ね、そうゆうところをですね、私は金光様の信心の有難さというのを、いや有難さというかね、その金光大神のお徳の高さというか、もう全然問題じゃないなというふうに感じたんですけれどもね、確かそうゆうこともないやない。けれどもそれだけのことをされるのですから、やはり元がいい。確かに。ね、だからここんところをです、これは、私はいうならば銭金ではない。金光様の先生でもいかにも金光様の先生なら銭金で拝まんといいながら、もしこれが生活のために奉仕しておるのであったならば、もう銭金で拝んでおるのと同じだ。それでは、人が助からないとこう思いますね。ですからここんところをです、私共間違えてはならん、金光様の信心は銭金では拝まんのだから、えー銭金なんかは、問題ではない。ね、それは真心さえあれば、今の(ちい?)が出るとこうおっしゃる。ね、今日はもったいないけれども、おさい銭がない、ね、途中で小川の石を拾うて、それを清めて、おさい銭箱に(とう?)を入れたと。といったような話はございます。いくらも。それでおかげを受けたという話もございます。ね、けれどもです、ね、出来てせんのはこれはおかげにはなりません。ね、いうならばはー金光様にお参りすると
どうしておさい銭がよう、お初穂がいる。お金がかかるからというような気持ちで、私はそのおしむ心で銭金をんーなったら、おかげになります。ね、ないならば真心一心。庭のチリまでも奉るということにですね、やはり私何をか皆が感じなければいけない。それじゃいけない。庭のチリまでも。あー何も持ってくるなとおっしゃってない。庭のチリまでもというところなんです。ね、何が何というても、結局命が一番大事なもの。ね、その命を支えておるもの。それはまーいうならば食物、ね、またはお金。または着物、ね衣料。まぁそれは命を支えておるものはまだ他にも色々あるでしょう。ね、食べ物、衣料、ね、お金。そうでしょう。お金があればお米を買うことができる。そしてそれを飯にして頂くことができる。命を継ぐことができる。ね、それは、その命につながるものはたくさんございましょう。してみるとですね、そのお金は(いよう?)は、そのまたは食べ物をです、もうそのままがもう命なのです。皆さんここんところを分からないかんと思うです。いうならばお金は命なのです。お米は命なのです。ね、そこに一升のお米が、100円のお金が、10円のいやばおさい銭がです、生きてくるのですよ。ね、いうなら自分の命を削っているからです。ね、お供えというものはそうゆうに一生懸命なものでなからなければならんのです。皆さんがお供えなさっておられるのは、あなたの命を削っておられるようなものです。ね、子供の病気を治したい一心で母親がね、自分の命を三年縮め、五年縮めてでも助けたい。ね、その一心を立てますと、あのおかげを受けるという事実があるでしょうが。というようにです、やはりその一番例えば大事なものは命である。その大事な命を縮める、命を削る。そして信心する。ここに一心が立たないはずがありませんよね。してみるとここには銭金というものが非常に、こう銭金では拝まんと。例えば銭金というものが、えーまぁいうなら汚れたもののように、ここでは感じられますね。けれども銭金というものはこちらの使い方、ね、こちらの(ぎょうしく?)の仕方によってです、ね、その自分の命を削って神にすがるということになるのですよ。ね、ただこれは取次ぎの者に対して、商法にしてはならんぞというところがこの御理解のみそであってですね、金光様の、はぁーここには銭金で拝まんって書いてあるから、まぁ銭金は多い少ない、そんなことが問題じゃなか。あげんでんおかげ頂けるというようなですね、あんいというか簡単な、あの受け取り方をする向きがありますが、この九十五節は中々、間違えやすい、間違えにくい、あ、間違えー、まぎらわしいですね、感じがちょっといたします。そして金光様の信心とは、お供え物にそんなこっちゃなか、銭金じゃなか、といったようなことを言いながら、んならお互いがやはり銭金というかね、では拝まんというような思いでおるけれども、実は銭金で拝んでおるとも同じようなことに(だらく?)しておる今人がたくさんあるやしないか、ということです。ね、とくに道の取次ぎ者にはです、先生方がね、ただ自分の生活のために、最近教団の中に教会の、それはそうなるもはずもないと思いますし、けれども一部にそうゆう声があって、そうゆう声に皆が賛成する先生方があるということを聞いて、本当にはらが寒い思いをするようなことがあるですね。お道の教師、教会はね、給料生にすべきだといったような話があることです。給料生、それだから誰でも取次ぎが安心して布教にでもでられるといわれてます。これはもう本当にいや他の宗派ならしかたがない。いいかもしれませんね。けれども金光教の信心はですね、この方の道は傘一本で開ける道とおっしゃるのですから。教会がでけたからそこに、人が助かるのじゃない。教会に座わる、そこの先生のいうなら傘一本、いわゆる安心一つが人が助かっていくところのことになるのですから。しかしこのことがですね、本気で取り上げられ、しかもそれに賛同する先生方だいぶんあるということは、ちょっと(めめしい?)ことですね。お道の信心、教団の生き方として。いわゆる生活のためにね、(給料?)取りになるのと同じことなんですよ。ね、これではやはり銭金で拝むような結果になるでしょう。ね、けれどもここで間違っちゃならないことは、( ?)私が申しました、何なん教会のおばさんの、はい三万円、はい二万円というておられるのは、私はこれは銭金で拝んでおるのではない。と申しました。ね、また銭金というものがです、これは例えば食べ物でも衣料でも同じことです。ね、何もお供えするものがないから、ね、この着物、古着でもこれをお供えしてくださいというようなお取次ぎを私はさせて頂いたことが何回もあります。ね、今日は何もないから、自分ところのお漬け物を持ってきて、それがすんませんこれでもんでお供えがすんませんけれどもというてそれでお取次ぎさせて頂いたこともあります。ね、食べ物それがそのまま私共の命だと。ね、いうなら命を削って( ?)ですからおかげにならんはずがないと。ね、ここではお供えをせねばならんということまで( ?)なりません。けれども私共がお供えをさせて頂いておる、銭金といったようなものでもです、ね、そうゆうところにきながったところの、お供えでなからなければならんのです。ていうと、(五つ?)削るよりも(とも?)と言った方が有難いという答えもでてくるわけございますね。間違えやすい、いやば御理解ですからそこんところを間違えないように、世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。それを商法にしてはならんぞと、その商法にしてもよいという、例えば宗教家ね、または(やじんじゃ ?)に行ってもやっておりますけれども、それはそこのたてまえですからね、それはまた商売ですからそれでいいのです、けれどもお道の信心においては、これは許されない。許されないけれども、それがですね、(合法?)的ではない、その取次ぎというかね、まぁ銭金で拝む結果になるような、状態のところがやっぱりあるんだと。それではおかげにならないはずだと感じる。形は同じようであっても、その内容がです、ね、神様の世の奉仕である場合はそれが、ある意味あいではです、ね、お供えへの要求をいたしましてもです、ある場合、この人はここんとこおかげ頂かなおかげ頂けん、というときに、はいあんたは三万円というて、なら言うてお供えをさせてもです、それは商法ではないと。そこんところの見極めをできるようなおかげを頂きたいと思うですね。どうぞ。